死んだ犬の話です。
辛気臭いので、スルーして下さい。
私のエゴ日記ですから。
私の腕の中でハリーが逝ってから、一年が経ちました。
およそ、死を看取るなんてことには慣れてようもなく、、
深く大きな息をして、心音が途絶えて。
さっきまで生きていたのに、、
この生と死のひっくり返ることのない激しい差は。
子供のごとく可愛がっていたものに、先に往かれるという堪え難い現実に、どう向き合っていけばいいのかもわからず…
それは半身をえぐり取られたような苦しみでした。
それでも仕事はやらなければならないし、お腹は空くし、眠くもなるし、笑うことだってあるし。
だけど、現実にある人やものごとの間に薄い紗がかかっているかのようで、ただ慣習に従って呼吸してただけで、生きている感覚がよくわからなくなりました。
こんなことしてたら、ハリーが悲しむ、と自分を叱るものの、悲しみの底に沈んでいた方が楽だったりもするので、泥のように沈み込みました。
涙は対処不能な感情を唯一代替してくれるものなんだと知りました。
時薬だよ、と言ってくれた友人がいました。
静かに、悲しみの渦がいずれ凪いでくれるのを待つしかないのだと思いました。
会いたくても、会いたくても、二度と会うことはできない残酷な別れが、人生には用意されてるということに、全く無防備でした。
この世の春が永遠に続くなどということはなく、生あるものは必ず死を迎え、万物は流転して、空になるならば…
そういう意味で、此の世のものは全て同じ蓮の上に乗った仲間なのだと思いました。
今朝は慈恵院で、一周忌の供養をしてもらってきました。
ハリーのためというよりかは、残された人間のための儀式なのかな。
あの日も今日みたいに暑かったね、昨日のことのようだよ。
凡人であるから解脱は難しいよ、ハリー。やっぱり会いたいよ。
だけど、生かされている以上は、しっかり生き抜かないとね。
しっかり生き抜くから、その時には虹の橋のたもとまでちゃんと迎えに来るんだぜ、ハリー‼