今日は7回目の母の命日。
闘病の2年間はもがくように過ぎた。が、母の介護の間、その愛の深さをものすごく感じることができて、この愛の深さに私は到底及ぶまい、とよく思ったものだ。
もっともっと生きたかったよな、生きて楽しいことまだまだしたかっただろうな、と切なく思う。死に向かう姿は諦めと寂しさが滲み出ていて、病に倒れるまでは人一倍明るくて元気だっただけに、胸が塞がった。
だから、元気だったころの母の思い出を。
母は若い時分より箏曲にのめっていて、山田流の免許皆伝、永島園亜都という芸名をもっていた。三味線なんかもできて、たまに謡もした。私は特に箏曲の音色が好きだった。
こんな写真が出てきたので、載っけてしまう!
私は物心つく前から、日舞をやらされたり、ピアノをやらされたりと、芸事が好きだった母は、私を仕込みまくってた。が、どれもあんまり好きではなくて、唯一箏曲だけは好きだったんだけど、、、
身内を教えるのって、多分難しい。母は、私がちょっとできないと、結構な勢いで叱咤してくるので、それが嫌で箏曲からも離れてしまった。
残念、、、!
和のもの続けていれば、また違った人生だったろうなぁ。なんでスペインのフラメンコに惹かれたかなぁ😫
そんな経緯があるもので、私がフラメンコで身を立てるに至った時は、それはそれは大喜びした。言わば私のファンクラブ1号で、最大のサポーターだった。
母が病気になってしまった時、私は母の愛の庇護を限りなく受けていたのだな、と気付かされた。まったくもって全然及ばない。なんのお返しもできないまま逝っちまった。
踊り手の阿部碧里ちゃんからいただいた芍薬。華やかな色が大好きだった母。喜んでる。
義母からいただいたトルコ桔梗。紫もまた母の大好きな色。
母はなぜか私の作るパエージャが大好きだった。今日はなんちゃってパエージャしか作れなかったけれど🙏
お心配りありがとうございました。母も喜んでます。
小さい頃は思いもしなかった、芸事で身を立てるということ、そこに身を置いたならば、命ある限りは、一歩一歩、前進してゆかねば嘘になるよね。母の分までがんばらねばよ。
そんなことをつらつら思った母の命日。