フラメンコの核

咽び泣くようにかき鳴らされるギター、腹の底いや地の底から絞り出されるような嗄れた叫び、それはまるで何かのまじないのように聞こえる。そしてそれらの音に呼応して肉を打ち震わせながら、時に獲物を狙って待つ猛禽類のように、時に髪振り乱し胸掻きむしり狂気のように踊られ、見るものはゾクッとしながら引き込まれる。そして、一旦そこに魅了されると、熱病のように思い続ける、またあれが見たい!と。

フラメンコを踊る時は、その衝動がなければ嘘になる、と思っている。一生できると思えないけど。その衝動は、フラメンコにある。フラメンコの音が教えてくれる、ここだよ、と。けれど、私は余計なことをやろうとしてしまう。カッコいい振りもしたいし、複雑なパソをカッコよく決めたりしたい。そしてそこに囚われると、行き詰まるし気持ちが萎えてゆく。フラメンコを聴く、感じる、フラメンコの音圧に負けないようにしゃんと立つ、歩く、その一歩は今出していいんかい?と自問しながら、探す。カツリとハマる時が稀にある。そこまで、探す、探す。そんな旅を続けていると、なんか途方にくれる。けれど、いつもそこを照らしてくれるのは、大沼由紀先生だ。

先日見に行った新生エスペランサでのライブ、途方もなく素晴らしかった。

全てが衝動であり、先生の存在全てだった。エスペランサの空間が、それを包み込む温かい光に満ちていた。フラメンコから愛されるってこういうことか!と嘆息した。

歌うように踊る、弾くように踊る、そして歌う。フラメンコに全てを捧げてきた大沼先生がその核へと迫る瞬間であったと思う。ヤバい!

4/24にエスペランサでの再演が決まったようです。たくさんの方に、本物を見て、感じていただきたい、と思う舞台です‼️

野生

「鹿肉が手に入った!」と旦那からハイテンションの電話が。友人が鹿の駆除をしていて仕掛けた罠にかかったらしい。

ぇぇ、生きてる子をさばくわけ?あの鹿のつぶらな瞳を思うと、罠にかかってしまった無念さを思うと、なんだか切ない。普段肉という肉はなんでも良く食べてるくせに。

旦那が持って帰ってきたのは、元の姿とかけ離れた肉の塊。そう、スーパーと変わらぬ肉塊。こういう形状であれば抵抗感が少なくなる。

旦那は張り切ってロースト鹿肉を作ってくれた‼️雪が降りそうだ。。。もとい、キャンプ飯系は上手だね👏👏👏

臭みもなく、めちゃくちゃ美味い❣️中は柔らかく、程よく弾力があり、食べるほどに身体がポカポカ暖かくなってくる。すごいね。野生のパワー‼️

あまりの旨さに、鹿撃ちでもやるかな、と考えたけど、やっぱりあの顔を思うと腰引ける、、、

牛も豚も鶏も、顔や姿を思うと食べることすらためらわれる、、、

魚なら捌ける。捌けるもののみ食べた方がいいんじゃないかと思う。。。

が、その罪悪感を吹っ飛ばすくらい、美味かった。情けより食欲、、、

ありがたく、ありがたく命のエネルギーを頂戴いたしました。

がんばらなきゃ💪

ひっくり返るよ

私は白黒バッサリつけてしまうほうで、思い込みも激しい。けれど、時としてその短絡さが、自分の感じ方と違う人たちへの刃となってはいないだろうか。白でも黒でもいーじゃん、という広いところに居られないんだろうか、私は、、、

見渡せば、至る所にそんな偏ったものの見方は転がっていて、意識の上でも無意識の中にも、それはそれはたくさん。自分にうんざりするくらい。

ある日何かのきっかけで立ってる場所なんて簡単に変わる。今まで自分が関係ないと思っていた場所にポンと放り込まれた時、ああ、ここから見える景色はこうだったんだ、と気付く。そこにはそこの世界の紛れもない真実が、がんとして存在している。そうしてそこからの眺めは、悲しいものだったりする。知らないというのは愚かなことなのだと思い知る。

この世はいつだって「まさか!」が溢れてる。表裏一体で、しかも複雑に絡まっている。人知を超えている。

だから、どーでもいい。白黒つける意味がない。今日は白だけど明日は黒かもしれないし、ピンクになってるかもしれない。ギスギスしたくない、広く大きくどこまでも広がって、境目がなくなるほどに滲んでいってしまいたい。

そんなことを思いました。