先日のエスぺランサにお越しいただきました皆様、ありがとうございました!
ライブのちょうど1週間前に母が退院して来まして、バタバタしている中、靴を履いて練習する時間などとてもとれず、
かなりの博打フラメンコでしたが共演の皆様、応援にきてくださった皆様のお蔭で無事に終えることができ、ホッとしております。
ありがとうございました
が、踊り手たるもの、いついかなる時でも踊れる体は作っておかなければと、激しく自省いたしました。
やれることをがんばります。
さて、少しうざい話です。
私自身の備忘録として、また自己満足で書いてゆきますので、めんどくさい方は、どうぞスルーしてくださいませ
私の母は、一昨年の12月に子宮頸がんの手術をしました。
リンパまで転移していましたが、見える範囲のガンは取りきった、と主治医の先生から説明を受けました。
が、見えないレベルでの転移を予防するためにも、抗がん剤治療が必要だと言われました。
一般病院でのガン治療は、抗がん剤か、放射線に限られています。
その2つのうち、放射線よりは有効、という理由で、抗がん剤治療が開始されました。
母は約半年間、頭痛、吐き気、全身の倦怠感、脱毛といった副作用に悩まされながらも、前向きにがんばりました。
治療後の検査の結果、転移はどこにも認められず、母や家族は久しぶりにとても晴れやかな気持ちになりました。
母はガンを克服したに違いない!と。
その後も、再発しないようにと、食事療法など、できる限りのことをして健康維持に気を配っていました。
が、昨年の5月、ろれつが回らないなどの症状が出たため、検査してもらったところ、脳に腫瘍ができていることがわかりました。
1週間経たない間に左半身に麻痺が来て、即刻手術となりました。
病理検査の結果、子宮頸がんと同じガン細胞で、リンパを通って脳まで達したとのこと。
大きな腫瘍は取り除いたが、浸潤しているのと、リンパへの転移もあることなどをふまえると、余命1年ほどであろう、と宣告されました。
あんなに苦しんでがんばってきたのに、抗がん剤治療で抑えられなかったのか。
大好きなゴルフに通えるまで復活したのに。
見た目にはむしろ健康そのものだったのに。
無力感は半端ありませんでした。
母には余命のことは知らせませんでした。
元々子供が小学校入学の際に同居を考えていたのですが、余命宣告を受け、時期を早めて同居することにしました。
術後の母は、持ち前の生命力の強さで、医者に奇跡的!と言われるほどの回復ぶりを見せました。
放射線治療も大きな副作用も出ず、動かなかった手足が動くようになり、歩けもするし、言葉も戻りました。
母の努力、強さには、こちらが励まされる思いでした。
余命宣告なんて、気にせず過ごしてゆけばいいんだ。
が、同居生活も落ち着いてきた12月、母が腰の痛みを訴え、歩きにくそうにしていたため、検査をしたところ、今度は脊椎間への転移がみつかりました。
やはり同じガン細胞で、今度は脳から脊椎へ降りてきたのです。
そして、その脊椎間にできたのガンのために、髄液がまわらなくなり、脳が水頭症を起こしていると。
それにより、痴呆に似た症状、麻痺の悪化、突然の呼吸困難などが起こり得るとのことでした。
ガンの猛威にゾッとしました。
また、ずっとがんばって闘病してきた母のこれからが、あまりに過酷で、ツラくなりました。
それでも、まだ私は娘、という立場だから冷静でいられたのかもしれません。
長いこと連れ添ったパートナーの芳しくない病状を聞いた父は、父の方が先に参ってしまうのではないか、という落胆ぶりでした。
父は元気だった母のイメージから抜け切れず、病状が進んでいることを受け止めることができず、病院に対して、医者に対して、私たちに対して、
頑なに心を閉ざしてしまい、お母さんは必ず元気になるんだから、俺が毎日公園に連れていってトレーニングさせるから大丈夫だ!!と
母を無理やり外に連れ出そうとしました。そうでもしていなければやりきれなかったのでしょう。
母への接し方について、いつも父とは衝突ばかりしていました。
治ると信じて無理やりにでも歩かせようとする父・・・
これから悪化してゆくことを見据えて、看護体制を整えようとする娘・・
母の痴呆が進行してくれていて、むしろ良かったです。
何もかもはっきりわかっていたら、本人が一番苦しかったでしょうから。。
そんな中、母は痙攣を起こし、救急搬送されました。
母が、いろんな意味で、現状へギブアップした兆しなのだと思いました。
母の痙攣は、幸い薬で収まりましたが、倒れる前より、手足の麻痺、せん妄、嚥下困難が悪化しました。
これまで自力で出来ていたことが、ほとんど出来なくなってしまいました。
母が入院の間、病院のガン相談窓口のSさん、主治医、看護師さんたち含め、話合いの場がもたれました。
一般病院は、病を治すところ、つまり医療行為を行うところであり、それができない患者は、緩和治療専門の病院(いわゆるホスピス)か、在宅医療のどちらかを選択しなければなりません。
母は、病院で行うどの治療も効果なし、とみなされた患者であったため、そして病院に居たくないという母の希望も受け、1月から在宅医による訪問看護を開始していました。
話合いの場では、家族に、在宅で最期まで看取る意志があるのか、ないのか、ないのであれば、緩和治療の病院を探さなければならない、と詰め寄られました。
また、もし在宅で看取るならば、母が苦しむ姿も見なければならない、それも覚悟がいることだ、と。
私は、元々母を家で看取るつもりで同居を決め、私の家族にも理解してもらっていたのですが、父はやはりそこまで詰めて考えたくないようで、保留にしてくれ、と言いました。
受け入れがたい気持ちは理解できるものの、現に進行している病状に対して、対処してゆかねばならぬのです。
じいさん、しっかりしてくれ、腹立たしくも思いました。一方で、父の深い悲しみにふれたようで、痛みを覚えました。
とりあえず、本人の意思が第一でもあるし、家に連れて帰ろう、ということに決まりました。
退院前、私は看護師さんについて、一日の流れを見させてもらい、着替えやおむつの取り替え方、歯磨きのさせ方など研修させてもらいました。
そうして、桜まつりも終わった4/10、母が家に戻ってきました
続く・・・
近所の上水道は野趣であり雅です・・・
まるで深山の趣・・・
本当に東京か?!